あ、あともう一つ、国語で陽に教えてくれないけれど大事なこと。
作者がどう思って書いていたかは実はあんまり関係ない
今日もラジオ番組向けに数人の役者で短篇小説を読む公開録音を やってきたんだけど、その小説の作者本人が観客席にいて、 「こんなにおもしろい話だとは思わなかった」って感想をもらしてた。 役者がたどり着いた解釈が実は作者も想像してなかったことだったってのは、 かなりよくあることだ。でもそれで良いのだ。”whatever works” と良く言うのだけれど、 不正解でない限りどんな解釈でも許されるし、むしろ作者も自分の 想像を越えた解釈をされることを望んでいるだろう。そうなることが、 作品が作者の手を離れて自立した証なのだから。
1995年の日本数学会・市民講演会で松本眞氏(当時九州大学、現在広島大学)は、ニュートンの「プリンピキア」の内容を解説して、「リンゴが木から落ちるのを見ただけでは、万有引力の法則を導き出すことはできない」と言っています。たしかに、リンゴが木から落ちる、という現象を如何に普遍化してみても、せいぜい「地球上のあらゆる物体は地球の中心に引きつけられる」という程度のことしか導き出すことはできません。「それでは、リンゴは落ちてくるのに、月はなぜ落ちてこないのか?」と考えると、地上の物体だけでなく、天体の運行も視野に入ってきます。第1巻「1-7.ケプラーの惑星法則を計算して地球自転軸の傾きを知る」で紹介したケプラーの第2法則(面積速度一定の法則)を考えてみると、この一定の面積になっているという扇形の頂点から常に同じ大きさの力で引きつけられている事が、その天体が面積速度一定で宇宙を回転するという条件と同じことを表している、ということをニュートンは「プリンピキア」の中で、初等幾何を使って証明しているそうです。松本さんの解説によれば、ニュートンが「2つの物体の間には、それらの質量の積に比例し、それらの間の距離の自乗に反比例する引力が働く」という万有引力の法則に到達するためには、上記のケプラーの法則を含む、少なくとも4つの異なる天文学的な観測事実が必要だったそうです。それらが無いと、「質量の積に比例」とか「距離の自乗に反比例」とかいう性質を導き出すことができないからです。確かに「リンゴが木から落ちる」という事実をいくら普遍化しようとしても、こういう性質が得られるはずはありません。松本さんは、この「ニュートンとリンゴ」のエピソードの例のように、やさしく「分かった気にさせる」言葉の魔術に強い警鐘を鳴らしています。真理を得るには、多くの実験的事実を積み上げて、それらを総合的かつ合理的に説明できる論理を考え抜く事が必要なのです。
Hakkarainen 氏が提唱するナラティブ教育とはじゃっかん話がずれたかも知れませんが、子どもたちにとって魅力的なロールプレイングは、子どもたちに感情移入を促し、そのロール(役割)に設定されている「問題・課題の解決」に強い必然性・必要性を感じさせ、仲間と協力して集団的・意欲的に解決に取り組むようにさせる、ということですね。
私も大学で微分積分や線形代数を教えている時に、それらの定理や原理を発見した数学者の苦労話や、物理的な意味付けや実践的な応用例など、興味を引きそうな話題を提供して、少しでも学生たちが感情移入しやすいように必死で努力しているのですが、中には、「どうせ、教科書には解説してないようなそんな雑談は期末テストの問題には出ないんでしょ」とばかり、教科書の定理や計算例などから私の話が離れたとたんに緊張がほぐれて、自分たちだけの雑談を始める学生もいます。そういう学生は、10歳の頃の認知能力が飛躍を遂げるべき年齢で、「身の回りの日常生活の現実」という低いレベルの認識に頭脳が縛られてしまい、そこを一回切り離して、創造的な空想力を獲得するという飛躍が遂げられなかった不幸な人たちだと思うのですが、初等・中等教育では、そういう生徒を増やさないように頑張って欲しいものです。PISAイデオロギーの蔓延を反映してか、福岡教育研究集会(小・中学校)でも、「役に立ってなんぼの算数教育という思考と向き合う」という討論テーマが書かれていました。
先般ノーベル賞受賞者たちが口を揃えて「もう日本の教育はダメだ」といったのは、授業時間が少ないとかいうレベルのことではない。
官民一体となって「子どもたちが学習内容そのものにではなく、学習した場合に得られる報酬の獲得に熱中している」という教育システムに対して、「それではバカしか生まれない」とおっしゃっていたのだと私は理解している。
現に、超難関校といわれる大学を出た若者と話していて、あまりにものを知らないので、びっくりすることがよくある。
教養がないというレベルにとどまらず、専門課程で学んだはずの知識さえおぼつかない。
どうして、そんなにものを知らないのかと訊ねると、破顔一笑して、「いやあ、大学では全然勉強しなかったですから」と誇らしげな様子をする。
どうして、勉強しなかったことをこれほど自慢するかというと、それでも超一流校の学位記を獲得した自分のふるまいが「クレバー」だと思っているからである。
だって、わずかな苦役で大きな報酬を手に入れたわけだからである。
「ぜんぜん勉強しないで東大出ちゃいました」というのは、キーボードをちゃかちゃか叩いただけで1分間で数億円稼いだとか、1000円でベンツを買ったとか、それに類する「スーパー・クレバーな商品取引」なのである。
消費者マインドに立てばそういうことになる。
「学校なんかぜんぜん行ってねっすよ」「教科書なんか開いたことない」「試験なんか、ぜんぶ一夜漬けで、あとカンニング」というような言葉が「ほとんど誇らしげ」に口にされるのは学校教育で競われているのが「何を学んだか」ではなく「いかに効率よく競争に勝つか」だと彼ら自身が信じているからである。
4歳までに、専門職家庭の子どもなら自分に対して発せられた言葉を5000万語、聞く。労働者家庭の子どもは3000万語、福祉家庭の子どもは1200万語だった。すでに3歳の時点で、専門職家庭の子どもは福祉家庭の両親よりも多くの語彙を持つ。
3歳の時点で、専門職家庭の子どもは肯定的な言葉を70万回かけられ、否定的な言葉は8万回だった。福祉家庭の子どもは肯定的な言葉が6万回、否定的な言葉は12万回だった。
言葉で愛情を注ぎ、きちんと褒め、物事の理由を教え、説明する。これを何百万回と繰り返すことで脳は成長し、心は開く。こうした大切な経験を与えられなかった子供たちの可能性はひからびていく。3歳児の到達度が9歳から10歳にかけての状況をきわめて正確に予言している。
いやあ、なるほど、なるほど、そうだろうなと、つくづく私は思います。それでも、こんな数字をあげられると、思わずわが身も振り返ります。
階層を上昇できるかどうかは、当然ながら、お金のあるなしにかかっている。10代のころに貧しいと、人生の展望は暗い。貧しい10代を過ごした大人は、たとえ30代で貧困から抜け出しても、中年になると貧困状態に戻っているリスクが高い。
今や、人の経済的将来を左右するのは、能力ではなく、バックグラウンドである。どんな能力の子どもでも、その子が学校にとどまり、試験を受け、教育の梯子をあがっていくかどうかは、親の社会階層と密接に関わっている。
イギリスについての本ですが、今の日本にとっても大いに参考になる本だと思いました。
TVなどのクイズ番組で、国語、社会方面ではかなりハイレベルな問題が出るのに対し、理科になるといきなり小学校低学年向けになり、さらに、算数になると、それこそ四則演算くらいの問題になってしまう傾向が見受けられる。世の中(特にマスコミ関係)は文系の人が支配しているのだ。
Right now at Yammer we’re moving our basic infrastructure stack over to Java, and keeping Scala support around in the form of façades and legacy libraries. It’s not a hurried process and we’re just starting out on it, but it’s been a long time coming. The essence of it is that the friction and complexity that comes with using Scala instead of Java isn’t offset by enough productivity benefit or reduction of maintenance burden for it to make sense as our default language. We’ll still have Scala in production, probably in perpetuity, but going forward our main development target will be Java.
So.
Scala, as a language, has some profoundly interesting ideas in it. That’s one of the things which attracted me to it in the first place. But it’s also a very complex language. The number of concepts I had to explain to new members of our team for even the simplest usage of a collection was surprising: implicit parameters, builder typeclasses, “operator overloading”, return type inference, etc. etc. Then the particulars: what’s a Traversable vs. a TraversableOnce? GenTraversable? Iterable? IterableLike? Should they be choosing the most general type for parameters, and if so what was that? What was a =:= and where could they get one from?
A lot of this has been waved away as something only library authors really need to know about, but when an library’s API bubbles all of this up to the top (and since most of these features resolve specifics at the call site, they do), engineers need to have an accurate mental model of how these libraries work or they shift into cargo-culting snippets of code as magic talismans of functionality.